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パラスポーツインタビュー詳細

亀澤 理穂さん(デフ卓球)

亀澤 理穂さんの写真

プロフィール

名 前

亀澤 理穂(かめざわ りほ)

出身地

東京都

所 属

住友電設株式会社

 2025年に開催されるデフリンピック東京大会はデフリンピックが始まって100周年となる記念すべき大会です。デフ卓球で活躍する亀澤理穂選手は2009年に大学生で初めて出場した第21回夏季デフリンピック台北2009(以下、台北大会)から、結婚、出産を経て出場した第24回夏季デフリンピック競技大会 ブラジル2021(以下、ブラジル大会)まで、これまでデフリンピックに4回出場されてきました。そんな亀澤選手にデフリンピックとの出会い、デフ卓球の難しさ、デフリンピック東京大会への想いを伺いました。

耳の障害に気付いたのは、いつですか?

 家族が私の障害に気付いたのは私が生後10ヶ月の時でした。母の実家に泊まりに行って、みんなで花火大会に出かけたのですが、花火の音がしている中でぐっすり眠っている姿に祖父が、なんでこんな大きな音に気づかないのだろう、何かあるのではないか、と疑問に思ったのがきっかけでした。また、兄は呼ぶとすぐに振り向くのに私は呼んでも振り向かないので、やはり何かあると思い、病院に連れて行き検査したところ、先天性の難聴ということがわかりました。

(※)聴覚障害者を下記のように分類することがあります

難聴者:聞こえにくいけれど、まだ聴力が残っている人で、補聴器を使って会話できる人から、わずかな音しかはいらない難聴者までさまざま

ろう(あ)者:音声言語を習得する前に失聴した人で、多くは手話を第一言語としている

参考:「障害のある人のスポーツ指導教本(初級・中級) 2020年改訂カリキュラム対応」

聴覚に障害があることを知り、家族はどう思われたのでしょうか?

 大きくなってから母に「私の耳が聞こえないとわかった時にどう思った?」と聞いたことがありました。両親は、聞こえてないと判明した時はどう育てればいいか不安だったそうですが、所属していた卓球の実業団に耳が聴こえない方がいたので、相談をさせてもらったり、いい先生や仲間にも出会えて支えてもらってきたことを、私が大きくなった時に母が教えてくれました。もしそういう方々がいなかったら、母はもっと苦しい思いをしてずっと悩んでいたと思うので、これは本当に運命だったのかもしれません。その方々がいて本当にありがたかったです。

手話は幼い頃から使っていらっしゃったのですか?

 私が生まれた頃は、手話を推進するろう学校を知らなかったのと手話よりも口話(口の形から言葉を読み取り、また、その口の形をまねることで発音すること)という考え方が強かったと思います。また、町田市にある学校法人日本聾話(ろうわ)学校という口話教育を専門とした学校に通っていたので、手話にはそれほど興味がありませんでした。手話を始めるきっかけとなったのは、中学1年生のときに参加した日本ろうあ者卓球協会の合宿でした。初めてろう文化に触れ、手話ってこんなに早いんだと驚きました。会話にまったく入れず、一言も話せずにずっと体育館の隅っこにいたのを覚えています。そこから色々な仲間と出会い、手話を覚え始めました。

卓球を始めたのは、いつですか?

 小学1年生の時ですが、真面目に始めたのは中学2年生です。それまでは水泳や公文を習っていましたが、両親が卓球をやっていたので、近くの体育館に兄と見に行きました。そこで卓球をやってみたら面白くて、兄と一緒に卓球を始めました。

聞こえない中で卓球をする難しさは、どんなことでしょうか?

 卓球ではボールがラケットに当たる音、台に当たる音が重要なのですが、デフリンピックでは試合中の補聴器の使用は禁止されています。補聴器を外すと私の聴力は105デシベル(2mの距離で自動車のクラクションがようやく聞こえる)くらいで音がほぼない状態ですので球がラケットに当たる音などで球のスピードや回転のかかり方などを判断することが難しいです。そのため視覚で情報を補わなくてはならず、目がとても疲れます。それだけが原因ではないと思いますが、もともと2.0あった視力も今は0.6まで下がりました。メガネをかけたいという願望はありましたが、いざ使用してみると煩わしいですね(笑)

「デフリンピック」を意識したきっかけについて教えてください。

 実業団に所属していた父が、障害の有無に関係なく参加できる卓球イベントを催したこともあり、車いすの選手や知的障害の選手、オリンピアンとも触れ合う機会があり、幼い頃からオリンピックやパラリンピックは知っていました。デフリンピックは中学1年生の時に行った合宿の時、元世界チャンピオンの講演会で初めて知り、私でも出場できるといいなと憧れを持つようになりました。その頃はまだ“憧れ”でしたが、中学2年生のときに出場した全国ろうあ者体育大会の卓球競技・シングルスで3位になったことで、「私にもできる」と憧れが“夢”に変わりました。日々生活していくうちに「デフリンピックに参加できるチャンスがある」と思うようになり、本格的に卓球に取り組みました。

これまで出場した4回のデフリンピックで、印象に残っている大会はどれですか?

 もちろん全部ですが、強いて挙げるとすれば、初出場でメダルを獲得した2009年の台北大会です。

 台北大会は女子団体で銀メダル、女子シングルスで銅メダル、混合ダブルスでベスト8という成績でしたが、団体戦が特に印象に残っています。シングルスは一人で戦わなければなりませんが、団体戦では振り返れば仲間がいる。もちろん自分のために戦うこともあるのですが、仲間と一緒に喜びを味わえる団体戦が好きです。2012年の世界ろう者卓球選手権大会(世界選手権)では女子団体で金メダルを獲得したので、私は団体戦に向いているなと思っています。

銀メダルを獲得した2009年台北大会の団体戦
デフリンピックで獲得したメダル

女性アスリートとして競技をする難しさはどんなことですか?

 個人的になりますが、一番難しさを感じたのは出産による体の変化です。それまでは体力もあり、怪我もあまりしませんでした。しかし出産後は体力が思うように回復せず、ものすごく体が疲れやすくなりました。それに子供を預けられるところがなく、24時間という限られた時間の中で、ワークライフバランスの調整が難しくなったと思っています。でも娘はやっぱりかわいいです(笑)

 やはりママアスリートだけではなく、全ての選手やスタッフが現地に子供を連れて行かないと練習やプレーができないなど課題があります。それが解決できたらどれだけ幸せなことなのかと思います。

職場を変えたこともあったそうですが、お仕事や練習環境などについて教えてください。

 出産前から勤めていた会社は仕事も楽しく、プライベートで遊べるような仲間もいたので、そのまま働き続けたいという思いもありました。しかし、育児をしながら、他の社員と同じように働いて練習をするとなると時間が足りず、金銭面も負担が多く大変でした。卓球を諦めて仕事を続けるか、転職してパラアスリート雇用で競技を続けるか、2つの選択に迫られ、半年ほど悩みました。そんな時、東京でデフリンピックが開催されるかもしれないという話を知り、卓球を簡単に捨てることはできない、やっぱり卓球をやろう、と考えました。そして、金メダルを獲ると覚悟を決めて、パラアスリート雇用採用のある現在の会社に入りました。普段の練習では、週に1〜2回コーチの指導を受け、それ以外は健聴者やデフの仲間と練習をしてします。卓球の練習だけではなく、パーソナルトレーニングに行ったり、ブラジル大会のときにヘルニアになってしまったので、そのケアのため週に1、2回はマッサージに通ったりしています。1日24時間では足りず、その中でうまく工夫することで私にとって良い経験となっております。

休みの日の過ごし方は?

 平日に休みがとれた時にはリフレッシュとして自分がやりたいこと、例えばネイルをしたり美容院に行ったりしています。でも普段は卓球に時間を費やしていて4歳の娘には我慢をさせているので、一緒に思い切り遊ぶことが多いですね。娘は卓球には興味がないようで、試合会場や練習場に連れていくと早く帰りたいと言われてしまいます。今は走ることと水遊びが好きなようです。親としては、他のスポーツの方が自分の視野も広がり、情報交換をしながらコミュニケーションがとれるのかなと思っています。

 家族みんな卓球が好きですが、家ではあまり卓球の話はしませんね。最近だと、野球のWBCをテレビで見ながら、大谷翔平選手すごいねとか、走るの速いねとかそんな話ばかりしていました。

今年、台湾で開催される世界ろう者卓球選手権大会(以下、世界選手権)での目標は?

 2016年と2020年の世界大会は、日本選手団の派遣は中止となったので、今回の日本代表としては2012年以来の世界選手権となります。その時は女子団体と女子ダブルスで金メダルを獲得したので、今年の大会でも金メダルを獲って連覇したいと思っています。

試合会場では観客がいろいろな形で応援していますね。

 2012年に東京で開催された世界選手権の会場では、長い棒状のスティックバルーンをパンパンとたたいて応援してくれました。音は聞こえなくても拍手より目立つので、とても見やすかったです。また、アイドルのコンサートみたいな大きなうちわで応援してくれた方もいて、試合が終わってもらうことも多かったです。試合中は選手も余裕がないので、私としては手話で「がんばれ」と言われるより、文字でパッと「がんばれ」と見える方がうれしいですね。

昨年開催されたブラジル大会では、新型コロナウイルス感染症の影響により日本選手団は途中棄権し、亀澤選手は女子団体で銀メダル、女子ダブルスで銅メダルを獲得したあと、女子シングルス・決勝トーナメントでの戦いを前にしての棄権となりました。その時はどういう気持ちでしたか?

 これまでデフリンピックでは3大会に出場してメダルを2個ずつ獲っていたので、同じ大会で3個のメダルを獲りたいという思いで大会に臨んでいました。団体戦とダブルスでメダルを獲得し、もう1つ、シングルスで3つ目のメダルを目指していた時に途中棄権となってしまったので、「また2個になってしまった」という悔しい気持ちはありました。けれども、デフリンピックにすら出られない可能性もあった中で、苦難を乗り越え無事に試合に出場し、そしてみんなが無事に日本に帰ることができて本当に良かったです。

コロナ禍の中での競技活動で大変だったこと、苦労したことは?

 マスクをつけて卓球をするのがとても苦しかったです。それに、練習場で誰かに話しかけるにも、お互いマスクをしているのでうまくコミュニケーションがとれないという問題もありました。耳が聞こえないことを伝えると、みなさん携帯電話を出して文字を打って会話をしてくれます。とてもありがたいことなのですが時間はかかってしまいますよね。だから、コミュニケーションが難しかったなと感じています。

YouTubeの動画も作っていらっしゃいますね。

 最近はあまり撮っていなかったのですが、東京でデフリンピックが開催される2025年までの2年間だけ、頑張って配信したいと考えています。オリンピックやパラリンピックに比べてデフリンピックの知名度は低くて、デフリンピックがどれくらいすごい大会なのかを伝えるには、実際に経験をした選手が発信してくことが必要だと思っています。動画でオリンピックやパラリンピックに出場した方とコラボレーションできたら嬉しいですね(笑)

2025年に東京で開催されるデフリンピックへの想いをお聞かせください。

 デフリンピックが東京で開催されると聞いた時、「やったー!」という、うれしい気持ちでいっぱいでした。2025年はデフリンピックが始まってからちょうど100年という記念の年なので、デフリンピックの知名度を上げるチャンスでもあります。そして私個人としては、目標である「デフリンピックで金メダル獲得」を達成して終わりたいなと考えているところです。

 今まで世界選手権やアジア大会では金メダルを獲りましたが、デフリンピックではまだ金メダルを獲れていません。2013年のブルガリア大会で上田萌(うえだもえ)選手が金メダルを獲って、その後きれいに引退をされたんです。上田選手の姿を見て、私も金メダルを獲るまで頑張りたい、そしてもし獲れたらきれいに引退しようと心に決めました。どの種目で、というのは考えていませんが、団体戦が大好きなので、仲間とみんなで金メダルを獲れるように頑張りたいと思います。もし金メダルが獲れなかったら引退が伸びるかもしれませんが…とにかく最後のつもりでこの2年間がんばりたいと思います。ぜひ、応援よろしくお願いします。