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パラスポーツインタビュー詳細

有安 諒平さん(東京アスリート認定選手:ボート)

有安諒平さんの写真

写真提供:本人

プロフィール

名 前

有安 諒平(ありやす りょうへい)

生年月日

1987年2月2日

出身地

アメリカ・サンフランシスコ

所 属

株式会社東急イーライフデザイン
杏林大学医学研究科

クラス

PR3

障 害

視覚障害

 令和2年度「東京アスリート認定選手」、ボートの有安諒平選手にリモートインタビューを行いました。昨年10月に韓国で開催された2019アジア選手権のPR3クラス(混合舵手つきフォア)で準優勝した有安選手。ボートとの出会いや競技の魅力についてお聞きました。

◆ボート競技とは?

 北京2008パラリンピックで初めて正式競技として採用されました。障害の種類や程度に応じて3つのクラスがあり、クラスごとに出場できる種目が決められています。パラリンピックでは4種目(男子1人乗り、女子1人乗り、混合2人乗り、混合舵手つきフォア)が行われ、2000mの直線レーンで順位を競います。

お生まれはアメリカのサンフランシスコなんですね。

 父親の仕事の関係でアメリカで生まれ、5歳くらいまでむこうに住んでいて幼稚園の終わりごろ日本に帰って来ました。兄は英語が話せますが僕は忘れてしまったみたいで、大学院の試験も英語が一番苦労しましたね(笑)海外で行われる試合では、他の国の選手とも積極的にコミュニケーションを取るようにしていますが、スマートフォンの翻訳機能を使ったりしながらいつも苦労して会話しています。

有安選手の障害について教えてください。

 中学校に入るくらいから黒板が見えづらくなり、遠くのものが見えなかったりしました。「黄斑ジストロフィー」と診断されたのが15歳のとき。網膜の中心部にある黄斑部に変性が起きてしまう病気で、見ている真ん中のところがぽっと抜けてドーナツのように周りだけぼやけて見えます。年齢とともに徐々に進行していったのですが、中学、高校くらいまではごまかしながら自転車も乗っていました。今はいろいろとサポートしてくれるシステムがあるおかげで、日常生活を送るうえで困ることはあまりないのですが、書類などは見えないので大変なところはありますね。

ボートの前には何か他のスポーツをやっていましたか?

 目が悪くなった中学、高校生のころは、自分が障害者であることを自覚させられるのが嫌で、思春期はスポーツ、特に球技からは距離を置いていました。大学に進学して20歳のときに視覚障害者柔道と出会いスポーツを始めました。(視覚障害者柔道の)半谷静香選手とは大学の同期なのですが、彼女が柔道をやっていたのが競技を知るきっかけにもなりました。視覚障害者柔道は競技の特性上、相手に触れてしまえば決定的な差はありません。初めて自分がスポーツ側に受け入れてもらえたような気がして、スポーツが楽しいと思うようになりました。パラスポーツがあったおかげで、スポーツに対する気持ちが切り替わりました。

2014年には視覚障害者柔道の強化指定選手に選ばれていますが、その後、2017年にボート競技へと転向されました。そこにはどういう思いがあったのでしょうか?

 楽しくて柔道を続けるなかで、パラリンピックに出られたらいいなという思いはもちろんありました。しかし、ある程度までは勝ててもやはり小さいころからやっている選手に最後の最後で勝てなくて壁は厚いと感じていました。さらに、仕事のため道場が開いている時間になかなか帰宅ができず柔道の練習ができなくて、何かいい方法はないか、他の競技で自分にできるものがないかと探していました。

 ボートとの出会いは、2016年に東京都と公益社団法人東京都障害者スポーツ協会が共催した「パラリンピック選手発掘プログラム」でした。柔道に限界を感じていたころ、友人に教えてもらい参加しました。いろいろな競技団体の方がブースを出していて、選手たちがひとつずつ回って競技の適性を見るための体力テストを行うのですが、その中にボートのこぐ力を測る「ローイングエルゴメーター」もありました。柔道の経験から引く力があったので感触がよかったですし、もともと闘争心があまり高いほうではないので、こつこつトレーニングしてタイムを競うスポーツのほうが性格的にもあっていると思い、陸上とか自転車とかいくつかの競技を体験した中でボートを選びました。東京2020大会の開催が決まって本気でパラリンピックを目指してみたいと思い、出るために一番自分に向いている競技は何かと探した結果、ボートをやろうと決心したのです。

写真提供:本人

ボートに転向後、育成選手を経て、2018年9月にブルガリアで開催された世界選手権では日本代表として出場し、PR3男子ペアで4位入賞を果たしました。同年には「東京アスリート認定選手」に選ばれ、2019年からは日本ボート協会強化指定選手となりました。短い期間で着実にステップアップしていますが、これまでの道のりはいかがでしたか?

 最初の育成選手になるまでが一番苦労しました。ボート協会の規定でローイングエルゴメーターを使っての標準記録が設定されているのですが、そのタイムを切らなければ合宿どころか育成選手の選考にすら参加することができません。やったこともないボート競技のマシーンで、誰も教えてくれない中でまずタイムを切らなければならず、とても大変でした。また、その頃は今の会社ではなく、大学職員として仕事をしながら大学院生でもあったので、大学院の研究をした後、夜中に黙々と駐車場でマシーンを使ってトレーニングをするという生活を続けていて、それが一番辛かったですね。そうして、なんとかぎりぎりタイムを切ることができて、そこからは比較的スムーズに生活ができました。

パラリンピックのボート競技では4種目が行われますが、有安選手が参加するクラスについて教えてください。

 僕が参加しているPR3クラス(混合舵手つきフォア)は、チーム構成が非常に多様です。視覚障害者と肢体不自由者がそれぞれ男女2人ずつ、そして性別や障害の有無を問わない舵手1人の5人がワンチームとなります。そこがこの競技の面白さなのです。例えば、肢体不自由の選手のこぐ力を視覚障害の選手が補ったり、視覚障害の選手の苦手な状況判断を肢体不自由の選手が補ったりして、互いにない部分を補完しながら力を合わせてボートを前に進めていきます。クルーボートでは右側担当の人と左側担当の人でオールを1本ずつ持っているので、息が合わないと前に進みません。身長差や実力のバランスも合わせなければいけないので、見た目以上に繊細なバランス感覚が必要になります。凸凹なクルーがまとまって一つのクルーとして艇を進めていくのが面白さの一つだと思っています。

 そして、障害特性を広く受け入れているのも特徴です。肢体不自由の選手の場合、(障害があるのが)手でも足でも、麻痺でも切断でも参加することができます。そのため、出場する国ごとに障害の特性が全く違う編成になります。クルーのうち肢体不自由の選手が二人とも脚に障害がある選手であれば、あまり上半身がぶれないので艇の中心に重心を置いて漕ぐことができますが、片腕に障害のある選手が乗る場合には左右のバランスを取るために工夫が必要です。4人の障害特性に合わせた漕ぎ方の工夫を見るのも楽しいと思います。

チーム構成のほかに日本チームにはどういう特徴がありますか?

 ボートでは手の長さ等によるリーチが重要なポイントになりますが、ヨーロッパの選手たちが軒並み身長2mくらいと大きいのに対して、日本の選手は体があまり大きくありません。単純な体の大きさとパワーではどうしても大きな選手に勝つのは難しいので、チームワークやオールワークを意識しています。ブレードをどのように動かすのか、オールを丁寧に水に入れ無駄のないように動かして「美しく漕ぐ」ということを目指してやっています。そういう繊細さや、チームとしてのバランスは日本チームの強みでもあるし特徴だと思います。

柔道は個人戦でしたが、ボートではチーム戦です。試合に臨むうえでの心境的な変化はありましたか?

 柔道では闘争心をむき出しにして戦わなければいけないようなところがあって、僕はあまりそういうことが得意ではありませんでした。ボートに切り替えてからはチーム戦なので、仲間を思う気持ちが気迫へとつながり、自分のギアがとても入れやすくなりました。なかでも、男子の視覚障害選手という僕の立ち位置は、クルーの中でいちばん出力が期待されるポジションです。闘争心は強くなくても責任感は強い方です。僕が要になってやらねば、仲間を支えなければ、という強い思いを素直にレースにぶつけられるようになりました。

ボートをやっていて楽しいと思うのは、どういう時ですか?

 自分ひとりの競技力の部分でいうと、ボートは数値化しやすいんです。例えば、柔道では自分がどのくらい強くなっているのか実感としてわからないということがあると思うのですが、ボートではローイングエルゴメーターで200m漕ぐのに0.5秒速く漕げるようになったというように、確実にステップアップしていくのが数値でわかります。そこで小さな喜びが生まれますし、自分のモチベーションにもつながります。そして、チーム競技ならではの楽しさもあります。試合では2000mの直線をただワーッと走っているように見えますが、実際には700mくらいのところで波が来て苦しくなって、その時にクルーの誰々が頑張ってくれているとか、次は僕がここを支えるとか…そういうやりとりが選手の中で行われています。試合中は喋っている余裕がありませんが、ここは4人で支えて進むんだ! などと思いながらみんなで気持ちを一つにして、2000mを漕ぎ切ってゴールした瞬間は「わー、終わった!」と最高に高揚する、最高に楽しい瞬間です。

仕事と競技はどのように両立させていますか?

 自所属先の株式会社東急イーライフデザイン本社やその関連施設で理学療法士として仕事をしながら、競技活動も業務として認めてもらい、今は競技活動を中心に生活しています。会社の社内報に記事や試合結果を掲載してくれたり、練習スケジュールに配慮してもらったり、会社の方々がみんなで応援してくれているなと感じています。

将来のビジョンについては、どのように考えていますか?

 大学院、医療現場での仕事、競技生活も含めて、いろいろな可能性を維持しながら、どの分野にいても力が発揮できるような状況を作っていきたいと思っています。今はあえて一つに絞らずにいろいろなことに挑戦しながら、一番自分が力を発揮できるところでやっていければと思います。

「座右の銘」は何ですか?

 これといった言葉があるわけではないのですが、行動するうえでの自分のルールとして共通しているのは「チャレンジする」「挑戦する」ということです。ボートにチャレンジしたこともその一つですし、競技生活以外のところでは、視覚に障害がありながら研究職に就くということが最初はなかなか大変でしたが、そこにチャレンジしていこうという気持ちでやってきました。趣味でも好きなスカイダイビングに行ったり、滝行に行ってみたり。もともとチャレンジするのが好きな性格ではあるので、それが高じて今はパラスポーツという舞台にチャレンジしています。

新型コロナウイルス感染症の世界的大流行によって、東京2020大会は1年延期されました。延期が決まったときは率直にどう感じましたか?

 新型コロナウイルス感染症の状況が悪化していき、スポーツのイベントも制限されていく中で、東京2020大会の開催について議論されている頃は少し不安がありましたが、パラリンピックの延期が決まったときは、正直、中止でなくてよかったと思いました。僕にとってこの1年間の延期は、プラスに働くと考えています。なぜなら準備期間が増えましたし、周囲の皆さんの支えのおかげで、自宅でしっかりトレーニングに集中できる環境ができたのですから。自国開催ということで、それまでの競技環境と比べると東京2020大会に向けての環境はすごく充実しています。自分が強くなる土台がしっかりしている状態で1年間準備期間が延びたというのは、利点だと思っています。活動自粛となり不安定になった選手もいましたが、僕個人としては、会社のサポートのおかげでトレーニング機材を揃えてもらえて、落ち込むというより、願ってもないレベルアップの期間になるとポジティブに考えました。

新型コロナウイルス感染症の拡大防止対策による外出自粛期間はどう過ごしていましたか?

 東京都内にあるナショナルトレーニングセンターや普段拠点にしている相模湖競艇場、戸田のオリンピックボートコースも全て閉鎖され、水上練習は全くできなくなりました。仕事が在宅勤務になったこともあり職場の理解のもと、緊急事態宣言が出る前の3月末からしばらくは実家のある山梨県に戻り、山梨を拠点にトレーニング生活をしていました。会社の方にトレーニング機材も揃えてもらい、実家のガレージに機材を並べてトレーニング場に改装して、自粛期間中にも自宅でトレーニングをすることができました。そして、クルーの仲間ともコミュニケーションをとりながらなるべく一緒に練習するようにしていました。練習メニューをみんなで考え、オンラインでつないで一緒にマシーンを使った練習をしたり、練習のときは必ずミーティングをしたり、お互いの状況について理解を深めるよう努めました。リモートトレーニングによって、普段は顔を合わせるのが難しい地方の選手とも頻繁に話ができるようになり、コロナ禍でむしろチームのコミュニケーションの回数は増えています。クルーと常に情報を共有しながら、チームとして形を作っていくというところは一生懸命意識したところです。

写真提供:本人

昨年韓国で開催された2019アジア選手権ではPR3クラスで準優勝を果たしました。東京2020大会に向けての意気込みをお願いします。

 まだパラリンピックの出場は決定していませんが、クルーと心をひとつにして1年後に向けて着々と準備を進めています。東京2020大会ではもちろんメダル獲得が目標ではありますが、パラリンピックのボート自体あまり歴史の長い競技ではないので、現実的には日本のボート(パラローイング)史上一番良い順位が取れればと思っていますし、取れると思っています。ボートはとても奥の深い競技です。この機会にぜひ興味を持って応援してください!