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パラスポーツインタビュー詳細

天摩 由貴さん(東京2020パラリンピック競技大会 銅メダリスト/ゴールボール)

天摩由貴さんの写真

プロフィール

名 前

天摩 由貴(てんま ゆき)

生年月日

1990年7月26日

出身地

青森県

所 属

マイテックグループ

ポジション/クラス

ウイング/B1(視覚障害)

◆東京アスリート認定選手

東京2020パラリンピック競技大会(以下、東京2020大会)で、ゴールボール女子日本代表の主将を務め、銅メダル獲得に貢献した天摩由貴選手。ロンドン2012パラリンピック競技大会(以下、ロンドン大会)にも陸上競技(100m、200m T11)で出場した経歴も持ちます。異なる競技でパラリンピックに出場できたのは「負けず嫌い」が原動力だと言います。そんな天摩選手にインタビューを行いました。

子どもの頃から運動が好きだったそうですね。

 小さい頃から体を動かすことは好きでした。何でも姉と同じことをやりたいという気持ちが強くて、いろいろなことに挑戦していました。記憶の中では見えない怖さみたいなものを感じたことは覚えていません。ただ、保育園で鬼ごっこをすると自分は見えないので柱にぶつかって、しょっちゅうたんこぶをつくっていたことは覚えています。

ロンドン大会にも出場することになる陸上競技を始めたきっかけは?

 高校1年生の時に全国障害者スポーツ大会に出場したことが一つのきっかけです。今は行われていない60mという種目に出場して2位でした。それが悔しくてもっと速く走れるようになりたいという気持ちが強くなって、陸上部で練習をするようになりました。

2位で「嬉しい」ではなく「悔しい」だったのですね。

 負けず嫌いで、基本的に1位じゃないとダメだと思っているので。この負けず嫌いは私が生まれ持った一つの個性で、それが強いが故に2位では満足できませんでした。

本格的に陸上競技に取り組んで、ロンドン大会には100m、200mの2種目で出場しましたね。

 今になって思うと、あの時は目の前のことに必死で、出場することでやっとだったなと思います。この中で戦って決勝までいき、メダルを獲得する選手は本当にすごい人たちだと肌で感じた大会だったことを覚えています。

ロンドン大会の後、陸上競技を引退した理由は?

 パラリンピックにたどり着くまでは大変で苦しくて、それだけやっても世界とのレベルの差を突きつけられました。もしも次のリオ2016パラリンピック競技大会(以下、リオ大会)で2度目のパラリンピックとなれば、出場だけではなく、メダルを目指さないといけないと思いました。だけど、自分が今までやってきた以上の努力をできるのかと考え、気持ちをすぐには切り替えられませんでした。また次に向かって頑張ろうという気持ちになかなかなれなかったことが、陸上競技を離れた理由です。

写真提供:一般社団法人日本ゴールボール協会

陸上競技の世界から離れていた中で、ゴールボールとはどのようにして出会ったのですか?

 陸上をやめた後は1年以上スポーツはやっていませんでした。その頃、大学院の修士課程で勉強をしながら、母校である筑波大学付属視覚特別支援学校で非常勤講師をさせていただいていました。そこで学校のゴールボールの顧問先生に『今は何もやっていないなら東京パラリンピックを目指してゴールボールをやってみないか?』と誘っていただいたことがきっかけです。

実際にゴールボールをやってみた第一印象は覚えていますか?

 初めて練習に参加させていただいた時のことはあまり覚えていないのですが、次の日から全身筋肉痛になって1週間くらいは日常生活も大変だったことを覚えています。チームには強化指定選手が何人もいて、みんなうまいので、この人たちみたいにうまくなりたいと思いました。ここでも負けず嫌いの精神が出てしまいました(笑)。

個人競技の陸上からチームスポーツに転身しての楽しさや難しさは感じましたか?

 今は誰かがミスをしてもカバーしてみんなで勝てばいいと思えますし、自分のミスを誰かが取り戻してくれたら「ありがとう」という気持ちになります。みんなで戦うからこその楽しさや喜びを感じることができています。ただ、最初は独りよがりになってしまうこともあり、チームスポーツの難しさを感じることもありました。競技を続けていくと慣れてきますし、国際大会で勝ち上がっていくと、仲間がいることの頼もしさや、一緒に勝っていくことの楽しさを感じることもたくさんありますし、いろいろな経験の中でチームスポーツの良さがわかってきたと思います。

写真提供:一般社団法人日本ゴールボール協会

初出場のリオ大会では5位、そして東京2020大会では銅メダルを獲得しましたね。

 リオ大会の時は代表には選ばれましたけど、実力的にも経験的にも不足していて、出場時間も少なく、なかなかチームの力になれませんでした。今回の東京2020大会までの間では、チームの中心選手として戦えるようになりたいという思いを強く持って、自分がチームを引っ張っていくという意識も強くなりました。チームとしても東京2020大会では金メダルを獲ることを目標としてやってきましたので、銅メダルだったということに悔しさはあります。でも、最低限メダルを獲ることはできたという部分ではホッとした気持ちもありました。

天摩選手がこれだけ頑張れるエネルギーの源は?

 一つは負けず嫌いであること。もう一つは、自分のやることは自分で決めるという、私の信念です。自分でやると決めたからにはやりきる。それが私のスタイルです。それは競技だけでなく、それ以外のことでも変わりません。自分はパラリンピックで金メダルを目指すチームに入って頑張ると決めたので、きついことがあっても頑張ることができます。

写真提供:一般社団法人日本ゴールボール協会

障害のある方がスポーツをできる環境、サポート体制について思うことはありますか?

 私は盲学校に通っていて部活動があってスポーツをできる環境でした。でも、そういう環境がない人はたくさんいるでしょうし、できる場所があったとしても一歩踏み出せないという人もいると思います。今回の東京2020大会のように私たち選手のパフォーマンスを見て、自分もやってみたいと思ったり、やったことがないけど挑戦したいと思ったりしてくれる人がいるなら、一歩踏み出してもらえたらなと思います。

天摩選手が何か新しいことに挑戦する時、勇気を持って踏み出す秘訣は?

 私は好奇心のままにやりたいと思ったことはやってしまうタイプです。できるかできないかではなくて、まずはやってみようという考え方です。できないかもしれないからやらないのではなくて、やってみてできなかったら違う方法を考えればいい。そう考えて、何でも取り組むようにしています。

最後に今後の夢や目標をお願いします。

 今回の東京2020大会でチームは銅メダルを獲りましたが、私自身は大会の序盤でケガをしてしまい、ほとんどの試合に出られず、5年間積み上げてきたものを発揮できずに悔しい思いを残したまま終わってしまいました。次のパリ2024パラリンピック競技大会に、もう一度挑戦したいと思っています。今回の東京2020大会では、金メダルを獲得したトルコに2回負けて力の差を見せつけられています。今回よりもいい色のメダルを獲るためには、自分たちが勝つために何をしなければいけないかをしっかり理解して、一つずつクリアしていきたいと思います。

写真提供:一般社団法人日本ゴールボール協会

(取材・文/株式会社ベースボール・マガジン社)