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パラスポーツインタビュー詳細

齊藤 洋子さん(東京アスリート認定選手:シッティングバレーボール)

齊藤洋子さんの写真

プロフィール

名 前

齊藤 洋子(さいとう ようこ)

生年月日

1972年9月21日

出身地

東京都

所 属

港区役所

クラス

SV I

障 害

左下腿切断

平成31年度の「東京アスリート認定選手」、シッティングバレーボールの齊藤洋子選手にインタビューを行いました。競技との出会いからパラリンピックを目指すようになったきっかけ、いよいよ来年に迫った東京2020パラリンピック競技大会(以下、東京2020大会)に向けての意気込みなどをお聞きしました。

齊藤選手の障害について教えてください。

 3歳のときの交通事故で左足を切断しました。事故当時のことは断片的にしか覚えてなく、出血で服が汚れてしまってお母さんに叱られるんじゃないかと思い、服を汚してしまってごめんなさいと謝った記憶はあります。それから義足になりました。

義足にはすぐ慣れましたか?

 義足になった後、幼稚園に通っていた記憶もあるので、入院自体もそこまで長くなく、すぐに歩いていたと思います。学校生活も小学校からずっと普通学校に通っていて、足が無いことによって何かできないことがあってはいけないと思い、全部挑戦しました。体育の授業はもちろん、運動会に参加したり、高校時代は部活でソフトボールもしたり、何でもやりました。成長にあわせて義足を替えることもありましたが、子どもの頃は、はしゃいで転んだり、かけっこでも転ぶ勢いで走ったりしたので、年間で何本替えたかわからないくらい結構な頻度で義足が壊れていました。夕方は義肢装具士さんの所に通って調整してもらうような日々でした。友達とどこかへ遊びに行くときも足が痛いから行かないということもなく、普通に出掛けていました。だから、足が無いことも上手に隠せていると当時の私は信じていました。義足をつけてプールに入っていたにも関わらず、です。大人になって当時の友達に聞いてみたら、「えっ、わかっていたよ」ってあっさり。まぁ、そうですよね(笑)。

シッティングバレーボールを始めたきっかけを教えてください。

 20歳のときに初めて出会った障害者スポーツ、それがシッティングバレーボールでした。中学生の頃から義足を作ってくれていた義肢装具士さんに「バレーボールをやってからお酒を飲みに行くんだけど一緒に来る?」と誘われて、お酒につられて二つ返事でついて行きました。そこでやっていたのがシッティングバレーボール。半ば騙されたような気もしましたが、それから部活感覚で練習に参加するようになりました。

初めてシッティングバレーボールをしたときの印象は?

 最初は「簡単じゃん」って思いました(笑)。私は義足であることを隠して生活をするのが当たり前だったので、最初は義足を取らずに練習していました。義足であることで、学校でいじめられることも悪く言われることもなかったのですが、義足ということを知られたくなくて、外すことにとても抵抗がありました。初めて義足を外して練習した時、違和感がすごくあって、なんで義足を外して床を蹴れなくしちゃうのだろう、左右のバランスも悪くなるのにどうしてだろう、義足をつけてやったほうが上手くやれるのにって思っていました。でも、誰かと接触したときに怪我をさせてしまうかもしれないからと説明され、ようやく納得して義足を外して練習するようになりました。

初めて出場した大会について教えてください。

 1994年に北京で行われたフェスピック(※)という国際大会に出場しました。フェスピックの存在を知ったのは、練習のとき。今行っている練習が実はこの大会に出場するためのものであることを知りました。しかも、メンバーは私を入れてちょうど6人。とても驚きましたし、まだ世界を目指すレベルにない私が出場してはいけないと思いました。当時は、障害者スポーツをやるのは、障害のある人の中でもなにか特別な能力を持っている人だと思っていたので、足を切断しているという理由だけで出てはいけないと思ったんです。ただ、半年ぐらい一緒に練習して、みんなといることが楽しくて、私が抜けることでみんなが大会に出場できなくなることも嫌でした。そこで意を決して、みんなに追いつくために休日も必死に練習しました。

 フェスピック北京大会では、勝ち負けよりも、みんなと同じレベルまで上がらなければいけないという責任の方が大きくて、大会を楽しむなんて気持ちは一切なく必死でした。いまだにみんなに早く追いつかなきゃ、頑張らなきゃと努力はしているんですけど、20年かかっても追いつけている実感はありません……。

(※)フェスピック(FESPIC)…極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会(Far East and South Pacific Games for the Disabled)のこと。1975年から2006年まで9大会を開催。2010年からのアジアパラ競技大会に引き継がれる。

パラリンピックを目指したきっかけを教えてください。

 シッティングバレーボールは、2000年のシドニーパラリンピックから男子が、2004年のアテネパラリンピックからは女子も正式競技になりました。パラリンピックを目指すようになったのは、「パラリンピックに出ればシッティングバレーボールという競技をみんなに知ってもらえる」と思ったからです。

 私は、シッティングバレーボールからたくさんのことを教わりました。最初は義足を外すことが本当に嫌で、障害があることを誰かに伝えることに抵抗がありました。でも、私が義足だと知っても友達は増えたし、外してプレーしても友達はいなくなりませんでした。この競技に出会い、義足であることや障害があることを周りに知られても大丈夫なんだと思えるようになりました。まだまだ、昔の私のように義足であることを一生懸命隠そうとしている人もいる、その人たちに、障害があることを隠さなくてもいいと知ってもらうにはどうしたらいいのか考えました。当時は、障害者スポーツに関する情報がたくさん出回っているわけではなかったので、それなら、シッティングバレーボールをニュースで取り上げてもらい、それが誰かのきっかけになればと思いました。そうして、パラリンピック出場に向けて必死に練習するようになりました。

女子初出場となった北京パラリンピック、その次のロンドンパラリンピックを振り返ってみるとどうでしたか?

 男子がパラリンピックに出場しているのを見ていたのでずっと出たいと思っていました。パラリンピックに出たら有名になれると思っていましたがそんなことはなかったです(笑)。北京パラリンピックでは1勝もできずに終わってしまったので、パラリンピック本番よりも、その前の、パラリンピック出場をかけた試合の方が強く印象に残っています。

 ロンドンパラリンピックでは開催国のイギリスに勝つことができましたが、開催国枠で出ているチームに勝っても、世界に通用するレベルになったわけではなかったので、まだまだ足りないといった感じでした。前回のリオパラリンピックは出場すら逃してしまいました。

普段はどのような練習をしていますか?

 ボールに触れての練習は週2~3回程度で、それ以外はジムで筋力トレーニングをしています。仕事でどうしても体育館にもジムにも行けない日は、仕事のお昼休みにトレーナーからもらっている筋力トレーニングのメニューをこなしています。今、シッティングバレーボール女子代表チームは、新しいことにチャレンジしています。日々高い基準を練習で求められていて、よく言えば「切磋琢磨」、厳しく言うと「ふるいにかけられて」います。日本は世界に比べてどうしてもフィジカルで劣ってしまいますが、不利なことを考えるのではなく、コンビネーションやテクニックなどの技術力や粘り強さで体格の差を補いながら、日本らしさを出して挑むしかないと思っています。

ちょっとした息抜きにはどのようなことをしていますか。

 例えば、「関東リーグ」という関東にあるチームが集まって試合をする日などに、有名なデパートや並ばないと買えないような人気のお店でお菓子を大量に買って行って、みんなで食べるのが楽しいです。また、毎週、東京都障害者スポーツセンターで練習をする日は、「お菓子を食べてもいい日」と自分の中で勝手に決めていて、みんなで食べるお菓子を楽しみに練習に行きます(笑)。

東京2020パラリンピック競技大会に向けての意気込みをお願いします。

 パラリンピックを目指した当初はシッティングバレーボールを有名にして、多くの人に知ってもらうことを目標にしていましたが、今はもう色々なところに情報があって、探そうと思えば自分で探せるような世の中になってきています。なので、誰かのためではなく、「自分のため」に頑張るしかないと思っています。

 来年に迫った東京2020大会に向けて、辛く厳しいトレーニングの毎日を過ごしています。東京2020大会で、満員の会場の中でプレーすることを想像するだけでワクワクします。試合中は自分の感情を上手くコントロールして冷静にプレーして、勝ったときには喜びを爆発させたいですね。「実は入場の時から嬉しくてテンションも上がっていたんですよー!」って。そう言えるのは勝ったときだけなので、是非とも勝って、思いっきり客席に手を振りたいです!