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パラスポーツインタビュー詳細

松本 美恵子さん(車いすフェンシング)

松本美恵子さんの写真

プロフィール

名 前

松本 美恵子(まつもと みえこ)

出身地

宮城県

所 属

東京都立多摩総合医療センター

 東京2020パラリンピック競技大会(以下、東京2020大会)で車いすフェンシング競技に出場された松本美恵子選手。車いすフェンシングは互いに向き合い固定された車いすに乗り、射程距離ゼロのなか剣を用いた攻撃と防御を入れ替えながら行われる、スピーディーで高い戦略性が魅力のスポーツです。43歳でギラン・バレー症候群と診断された松本選手が車いすフェンシングに挑戦することを決めた経緯、東京2020大会に出場して感じた世界との距離やお子様と交わした約束などを伺いました。

受障の経緯について教えてください。

 43歳のとき、病院で看護師として勤務していた私は、育児休業から復帰後間もなく、身体に違和感を覚えました。休日に内科に行って風邪だと診断されましたが、数日経っても治らないのでおかしいなと思っていると、急に左半身が動かなくなり起き上がれなくなりました。脳梗塞なのかと思いましたが、少し時間を置いて体を温めてみると症状が緩和したので様子をみることにしました。そのうち複視(※)も出てきたので神経科で検査をしたところ、ギラン・バレー症候群だと判明しました。

 私の場合は症状がゆっくりと進行していたため、両足先から膝にかけて徐々に麻痺が出てきた状態でした。入院時にはペットボトルのキャップも開けることができなくなり、手足の筋肉が低下した状態になりました。半年間の入院、1年間のリハビリを経て、主に下肢に麻痺が残りましたが、仕事に復帰することができました。

(※)1つの物が2つに見えること

車いすフェンシングとの出会いについて教えてください。

 仕事に復帰するとき通勤の負担を考えて勤務先の病院の近くに引っ越して、息子も遅い時間まで預かってくれる幼稚園に変えました。

 息子は幼稚園でスポーツチャンバラの授業が大好きだったので、小学校進学に合わせて習い事ができるように剣道を体験しに行きました。最初は防具を着て嬉しそうにしていましたが、「やー!」と大きな声を出すのが恥ずかしいと言い出したため、声を出さなくても剣を使えるフェンシングが頭に浮かび、通える教室がないか調べて連れていきました。すると息子はフェンシングが楽しかったようで、教室に通うようになりました。

 その中で、その教室にいらしていた方に「車いすフェンシングっていう競技があるけど知っている?」と教えていただきました。当時は、パラリンピックは知っていましたが、車いすでフェンシングができることを知りませんでした。調べてみると北区に教室があったので問い合わせをして、息子より1か月遅れで車いすフェンシングを始めることにしました。

 「友達のお父さんやお母さんはできるのに、僕のお母さんはできないの?」そんなふうに息子が思うかもしれないと考えたからです。やはり寂しい思いをさせたくなかったですし、一人っ子だったので、一緒に競えたら楽しいなという思いもありました。

 これから成長していく息子と楽しみながら関わりが持てるように、そして、障害があっても頑張れる姿を見せることで、強く生きることを教えたかったので、週1回の練習から車いすフェンシングを始めました。

これまでのスポーツ歴は?

 小学生の頃から体育が大好きで成績もよかったですね。マラソンや陸上が得意で、マラソン大会では1年生から5年生までずっと女の子で1位でした。男の子にもそういう子がいましたが、その子は6年生まで6年連続で1位、私は5年で記録が途切れてしまいました。

 水泳やバレーボールもやっていて、高校では精神を鍛練しようと弓道に取り組んでいました。いろいろなスポーツがある中でどれが自分に合うだろうと考え、適した競技があればとことん極めました。その中でも一番入れ込んだスポーツが車いすフェンシングですね。

 自分ひとりではなく息子と切磋琢磨しながらお互いに改善点を話し合ったりして、成績が伸びていくのがすごく楽しいです。

そんな車いすフェンシングの魅力を教えてください。

 フェンシングと車いすフェンシングの違いは、立って行うか、座って行うかです。車いすの競技で、唯一車いすが固定されている競技が車いすフェンシングです。

 健常者のフェンシングはフットワークで相手との距離を保ちますが、車いすフェンシングは身体をのけぞらせて相手の剣をかわして距離をとります。健常者の選手と同じ場所で練習する際は、椅子に座ってもらって試合をすることもあります。座ることで、障害の程度が軽いカテゴリーAとほぼ同一条件で競技が行えるので、車いすフェンシングは障害の垣根を越えて多くの方と楽しむことができるスポーツだとも思っています。

本格的にパラリンピックを目指そうと思ったきっかけを教えてください。

 車いすフェンシング教室で指導を受け、こうやればポイントが取れるとか、剣をプッシュする時の感覚というのが今までに感じたことのない感覚で、すごく面白かったんです。

 そして私が車いすフェンシングを始めて2年目のときに、小学2年生の息子が区の大会で優勝しました。それに刺激を受けて、自分も大会に出て「お母さんすごいね」と言ってもらいたいと思いました。私は負けず嫌いな性格なので、息子が1位になったなら、お母さん(私)はパラリンピックを目指すよ、と。そこからスイッチが入って、楽しいだけではなくて一緒に強くなって達成感が得られたらいいねと話しました。

そこからパラリンピックまで、どのような道のりでしたか?

 北区の教室の指導者が健常者のフェンシングのコーチをしていて、国際大会などで車いすフェンシングを見たことがあるので、やる気があるなら教えるよと言ってくれました。

 初めて試合にでたのは、2017年に京都で行われた国内大会です。まずは国内大会で成果を出して、海外の大会にも行きたいと考えていましたが、2018年にインドネシアで行われたアジアパラ競技大会には選出されず、次の大会に向けてチャレンジしようと練習に励み、その年に京都で開催されたワールドカップでクラス分けのテストを受けて出場しました。

 東京2020大会出場がかかるポイントレースがすでに始まっていたので、そこからポイントを残せる大会を選んで海外遠征にも行きました。

看護師の仕事との両立は大変だったのではないですか?

 仕事でどうしても8時間は拘束され、他の選手よりも練習時間が少ないので、量よりも“質”にこだわって、いい練習をしようと考えを変えました。仕事をしながら競技を続けることへの意見も色々あると思いますが、他の競技でも仕事と競技を両立させている選手はいるので、車いすフェンシングでは「私がやる!」と思っています。

 もちろん難しいことも多いのですが、まずは常にできることを探す前向きな姿勢でいるようにしています。常にそうしていれば試合の時も役に立つし、人生にとってもきっとプラスになるだろうと思って取り組んでいます。まぁ、単純に負けず嫌いなだけですけどね(笑)。

東京2020大会は新型コロナウイルス感染症の影響により1年延期しました。松本選手は病院に勤めていたので苦労も多かったのではないでしょうか?

 病院からは、患者さんを受け入れる側が新型コロナウイルスに感染したら何もできないということで、感染症対策を徹底するよう強く言われていました。ナショナルトレーニングセンターがクローズして練習もできなかったので、車いすフェンシングの道具を一式持って帰ってきて家のベランダに置き、フェンシングからは離れることのないように息子と一緒に練習しました。

そして、東京2020大会に開催国枠で出場されました。

 コロナ禍により大会の中止が続き実戦から遠ざかっていたので不安もありましたが、外に出られない期間も練習はやっていたので、お披露目の場だと思って臨みました。

 結果としては全敗でしたが手応えはありました。特に印象に残っているのは、中国の栄静選手との試合です。これまでの対戦では点が取れないこともありましたが、今回の東京2020大会では3-5で敗れはしたものの、先に点数をとっていた私から4点目を奪った時に彼女が雄叫びをあげたんです。今までそんなことはなかったので、その本気の雄叫びを聞いて、対等に戦えていると感じました。とはいえ全敗だったので、それを取り返しにいかなければという気持ちがあります。練習の質をあげることで強い選手に追いつき、絶対またパラリンピックに出場したいと思います。

松本選手にとって東京2020大会はどんな舞台でしたか?

 パラリンピックはみんなの憧れの場所なので、そこに立ててすごく光栄でした。みんなの思いを乗せてその舞台に行くという感じでしたね。ナショナルトレーニングセンターの他に杉並区でも練習をしていたのですが、杉並区の方からたくさんメッセージを頂き、こんなに応援してくれる人がいるんだと知りました。本番ではそのメッセージを会場に持っていき、「みんなが応援してくれている。私はひとりじゃない」と思って試合に臨みました。そのおかげで強い気持ちで戦うことができました。

 それに出場選手の間でも、今まで挨拶をしたことがない強い選手からがんばってねと言われたり、お互いを称え合う姿を見て、他の国際大会とは違う偉大さを感じました。

東京2020大会での戦いを終えて、息子さんの反応はいかがでしたか?

 息子はリアルタイムで私の試合結果を確認してくれていて、大会が終わった後には叱咤激励されました。出場するからには、ちゃんと良い成績を残してきてよと言われていたので、自分の結果が悔しくて言葉がでませんでした。本当は私が試合をする姿を息子に会場で見せたくて観戦チケットも買っていたのですが、それは叶わなかったので、個人の記録用に録った映像を見てもらいました。すると、「お母さんだいぶ強くなったね」と言ってくれました。試合中は「こんなはずじゃない」と、頭が真っ白になったのですが、映像を見て自分で冷静に分析することができました。今後は戦術を見極めながら勝ちにつなげたいと考えています。

今後の夢は?

 息子と夢を語る時には、小さいところでは地区の大会で優勝、そして将来的に大きい夢としては、親子で同じ年のオリンピックとパラリンピックに出ることを計画しています。親子二代で違う年のオリンピックに出場したという話は聞きますが、同じ年のオリンピックとパラリンピックに出場している親子はおそらくいないのではと思い、お互いを励ましています。息子と一緒にその夢を達成するべく、これからも頑張りたいと思います。