パラスポーツインタビュー詳細

三山 慧さん(車いすラグビーメカニック)

三山慧さんの写真

プロフィール

名 前

三山 慧(みやま けい)

生年月日

1986年2月18日

出身地

東京都

所 属

株式会社テレウス

 車いす同士がぶつかるタックルが認められている車いすラグビー。激しいコンタクトプレーでタイヤがパンクした際、さっそうとベンチから駆けつけ、タイヤ交換を行い、修理をするのがメカニックです。三山慧さんは、北京2008パラリンピック競技大会(以下、北京2008大会)から東京2020パラリンピック競技大会(以下、東京2020大会)まで、4大会連続で車いすラグビー日本代表のメカニックを務めました。そんな三山さんに、競技との出会いやメカニックとして心掛けていること、今後の目標などについてインタビューしました。

三山さんは車いすラグビーの競技用車いす(以下、ラグ車)を扱う株式会社テレウス(以下、テレウス)のエンジニアでもあります。どのような仕事をされているのですか?

 日本の選手が使用しているラグ車は、ニュージーランドの「メルローズ」社、アメリカの「ベセコ」社、ドイツの「シュミッキング」社の製品で、タイヤやクッションなども含めて、テレウスが輸入・販売をしています。私は営業兼エンジニアで、プロモーションのための材料づくりやメーカーとのやり取りなども担当し、ラグ車のメンテナンスも請け負っています。

最新のラグ車はどんな特徴があるのでしょうか。日本製の部品や、三山さんが独自に開発したものもあるのですか?

 素材はチタンが主流ですね。材質が軽いので、とくに障害が重いローポインターのラグ車にはよく使われます。アルミも熱処理されているので、以前より頑丈で割れにくくなっていますね。

 部品の中でもハンドリムなどは日本製のものもあり、テレウスでは、競技用車いすのキャスターをオリジナルで製作しています。もともとは車いすラグビーのために開発したものですが、他競技のメカニックと話をしたり、選手間で口コミが広まったりして、最近は車いすバスケットボールや車いすテニスの選手にも使用してもらっています。単価が安いので主力製品にはならないですが(笑)、定番化はしましたね。

車いすラグビーのメカニックと仕事は、どう両立されているのですか?

 日本代表を含め、メカニックは、今は一般社団法人日本車いすラグビー連盟からテレウスに依頼がきて、私がテレウスから派遣されるシステムになっています。つまり、メカニックもテレウスの仕事としてやっています。これは、ずっと自分が実現したかった仕組みです。

 パラスポーツのスタッフって、今も多くがボランティアじゃないですか。私も最初はボランティアでした。それだと、ほぼ個人事業主じゃないとできないし、会社員だと休みたくても休めなくて歯がゆいですよね。それをどうにかしたい、変えたいと思っていて、5年前ぐらい前に連盟と話し合って今の仕組みにすることに決めました。

車いすラグビーに関わる最初のきっかけは何だったのでしょうか?

 大学1年生の時に交通事故に遭いまして、入院先で後のリオ2016パラリンピック競技大会(以下、リオ2016大会)で車いすラグビーの銅メダルを獲得した官野一彦(かんのかずひこ)選手と仲良くなったんです。それで車いすラグビーの練習に誘われて、初めて観たのが2005年。「なんて丈夫な車いすなんだ!」と驚いたことを覚えています。そのあと官野選手が日本代表に選ばれたので、介助スタッフみたいな感じで代表合宿についていって、少しパンク修理の手伝いをしていたら、昼ご飯にお弁当がもらえたんです。当時はお金のない大学生だったので、「パンク修理手伝ったらメシ食えるじゃん」というノリで行き始めました(笑)。

そこでメカニックに興味を持ったのですか?

 北京2008大会の出場を決める大会が2007年にオーストラリアで開催されたのですが、どこからか「その大会にスタッフとして行けば北京2008大会にも行けるらしい」と聞きつけ、興味を持ちました。大学生だから時間もあるし、ほかにやりたいこともなかったし、連盟に「行けますよ」と連絡しました。

 それで、ボランティアスタッフとして日本チームに同行したところ、メルローズの社員で、そのときは日本チームのメカニックを務めていたニュージーランド人のマイク・ターナーさんに出会いました。メカニックの仕事を間近で見たのはその時が初めてですね。壊れた車いすをさっと直して、試合間も車いすを点検していて、「格好いいなぁ」と思いました。現地のホテルが同部屋で、私は英語が喋れないけど何とかコミュニケーションを取っていたら、「何かあったら連絡しておいで」と名刺をもらいました。そこから、自分もメカニックの道に進もうと思うようになりました。

修行もされたのですか?

 はい。北京2008大会で日本チームに帯同した2週間後に、ニュージーランドに出発して、半年間ほどメルローズで学びました。事前にマイク・ターナーさんに「パラリンピックが終わったらメルローズで働かせてくれ」と連絡していて、手続きなどはすべて済ませていました。帰国後も学んだことを活かしたいと思い、学生時代にアルバイトをしていた車いすの整備などをする会社に就職しました。アルバイト先を決めたのも、ある意味車いすラグビーのためです。当時、選手は車いすが壊れたら自動車の修理工場に持ち込むとか、結構苦労していたんですよね。でも就職先の会社は溶接機などがあったから、自分がここでラグ車の整備ができるようになれば、みんな来てくれるんじゃないかと思ったからです。

テレウスの作業場にはメンテナンスや修理のためたくさんのラグ車が持ち込まれる

そうしてどんどん車いすラグビーにハマっていったのですね。

 本当にそうですね。それこそ車を買うにしても、車いすが乗るか乗らないかで選んだりするし。車いすラグビーで人生が変わったなと思います。何も考えていなかった大学生が、今は人の役に立てている。それが長年、車いすラグビーに関わり続ける原動力になっていると感じますね。

メカニックとして大事にしていることは何ですか?

 メカニックの仕事って、7割、8割がカウンセリングみたいなものです。アスリートは「なんか身体がブレる」といったフィーリングを大事にしているので、何を目的としてそう言っているのか理解してあげる力が必要です。とくに車いすラグビーは障害で感覚がない人もいるので、その選手の障害の程度も理解したうえでアドバイスや修理をしなければならない。だから、練習中も普段と違う動きをしていないかなど、よく観察するようにしています。

テレウスの作業場にはメンテナンスや修理のためたくさんのラグ車が持ち込まれる

東京2020大会は三山さんにとって4度目のパラリンピックでした。どんな大会でしたか?

 いつもと同じように、自分が出来ることはすべてやり切りました。完璧に準備をしたので、ゲーム中に車いすが壊れることもなかったし、何かが間に合わないとか、ハプニングのようなことは起きませんでした。自分がやることも、チームの銅メダルもリオ2016大会と同じで、すごくニュートラルな気持ちでいましたね。

 実は、東京2020大会が終わったタイミングでスパッと辞めようかなと考えていました。4年ごとに燃え尽き症候群になっていて、東京のあとも燃えカスしか残ってなかったので(笑)。辞めないにしても、いったん離れたいなと。それで、東京2020大会のあとは1週間の合宿のうち最初の2日間だけ行く、みたいに決めてやっていたのですが、結局「あのあと大丈夫だったかなぁ」と気になっちゃって。やっぱり、もうちょっとやってもいいかなと思うようになりました。いま、日本チームのメカニックはもうひとり、川﨑芳英(かわさきよしひで)さんがいるので、経験を積んでもらう意味でも東京2020大会以降の日本チームの帯同は川﨑さんにお任せしています。

今後、挑戦したいことや夢を教えてください。

 2022年11月に開催された国際大会の三井不動産 2022 車いすラグビー SHIBUYA CUPでは、大会のメカニックとして参加し、出場国全体のメンテナンスを担当しました。日本チーム以外の日常車とラグ車を見られるので、すごくいい経験になりました。今回はオーストラリアのみでしたが、世界選手権は12カ国、パラリンピックは8カ国が参加するので、ぜひ大会メカニックとして携わってみたいですね。あと、車いすラグビー界に恩返しをしつつ、これまでに培ってきた知識や技術、人脈を、他の車いす競技にも活かして、パラスポーツの発展に貢献したいです。そして、いずれは世界中の選手と関われたら嬉しいですね。

(取材・文/MA SPORTS、撮影/植原義晴)